日記14

院試の結果を見た。不合格だった。わかっていた、わけではないが、仕方がない。これは重大なことではあるのだが、日記に書きたいことが特にないのでこの報告だけにする。

「傷心」ということで映画館に行き、『雨を告げる漂流団地』を見た。Netflixでも見られたみたい。素直に感動したが、音量がうるさかったのと、展開がしつこかったのが気になった。まあ、気になっても感動はするんだからどうしようもない。

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』を買って一章だけ読んだ。日常の偉大さを錯覚するために「日常的な宿命」の一例として自動車事故を報道する、的なことが書かれていた。少し前に、アルバイト先の大人に「お前やべぇじゃん」と言われたのを思い出す──村田沙耶香コンビニ人間』の同窓会のシーンも同時に思い出す。「やべぇ」と言うのは「思いやり」などでは決してなく、単に自分の日常の偉大さを確かめたいから、なだけな気がする。これは一つの解釈なだけであって、現状に対する癒しになるわけではない。

日記13

秋葉原に行って、ヨドバシカメラiPhone用のキーボードを買おうとしたが、キーの配列がMacBookと違うのしかなくて、使いこなせるかが不安で結局買わなかった。秋葉原にはそれ以外の用事がなかったけれど、それでも今日はできるだけ秋葉原にいたほうがいいと思ったので、とりあえずすき家に入りチーズ牛丼を食べた。プレーンの状態だとドリアみたいでそっけなかったので、紅生姜を気持ち多めにトッピングした。腹の減り具合的に完食するのがキツかった。

秋葉原のアトレはいつも何かしらのアニメ作品とコラボしていて、今日はアズールレーンだった。なんと、五周年を迎えたらしい。アズールレーンが五周年だなんて、世界はいたずらに歳を取らせるよな。アズールレーンはせいぜい二周年までしか許してはいけないだろう、普通に考えて。ソシャゲは「〜周年」なんて掲げずに、アンチエイジング的であってほしいとさえ思う。例外として、パズドラは仕方ない、という感覚はある。

コメダ珈琲に行って読書していた。後ろの席でボイスチャットをしている男性がいて不愉快だった。スマホで荒野行動でもやっているのだろう。まるで通話相手を口説いているような口調で話していたので、余計に嫌だった。

時間が空いたので本屋に立ち寄る。弘中綾香『アンクールな人生』を見かけた。ダ・ヴィンチで連載されていたのは知っていたが、書籍化したのか。ビニールに包まれていて立ち読みはできなかった。それよりも、白の表紙の中央にリクルートスーツを着た証明写真が貼られていて、「これが人生ですかあ(笑)」と、嘲笑まじりに苛立ちを覚えた。僕は「人生」という言葉が嫌いだし、関わりたくない。僕にとってこの世の中は、どれだけ「人生」を意識しないかにかかっている。「人生」に僕のからだや思考を売る気はない。

日記12

久しぶりにカラオケに行った。カラオケは地味に高くて、会員アプリを受付でインストールする。スマホのアプリケーションに対してはミニマリズムを発揮しやすいと思うけど、結局色々と不要なアプリも残している。ある程度アイコンで画面が色とりどりになっていないとむしろ落ち着かない。

歌うのはやっぱり恥ずかしさがある。特に迷うのは視線だ。下画面の歌詞をそれとなく見て歌ったり、目を瞑りながら歌ったり、色々試したが、結局画面に映っている歌詞をじっと見るのが歌に没入できるので良い。歌詞をちゃんと見ているのでラップのパートとかも意外と歌えるようになる。結局、「聴かれている」という意識と「聴かせている」という意識のバランスを考える、ということだと思う。

ラップは「歌う」よりも「言う」感じなので、噛むことさえしなければ恥ずかしさがない、とも考えられるが、どうしても「歌う」ことの恥ずかしさの裏返しのようにも聞こえてくる。変な声質や滑舌の悪さも露悪的に曝け出してしまおう、という態度にある恥の乗り越えの感覚。まあよくわからんけれども。

 

バラエティ番組は、単にショーとして観ることもできるが、他にもドキュメンタリー的に観ることもできる。演者の人となりを知るために。そこに物語を期待してしまうとまあかなり厄介にもなるのだが、とりあえずは「ショー/ドキュメンタリー」という区分をなんとなく設けることができる。

どっちが大事、とかはないと思うし、僕もそこまで気を遣っているわけではないが、この区分は他のジャンル、例えばアニメや映画についてもある程度当てはまるような気がする。

僕が最近観たのは「リコリス・リコイル」というアニメだ。このアニメ、人気はあるけれども設定の綻びとかで評価されていなかったりする。製作者インタビューでも、世界観を徹底させない態度が垣間見えて、まあ要するに「考察」のしがいがあんまりない。

けど、僕はサクッと「まあまあ面白いな」と思いながら観ていた。多分これはアニメを「バラエティ番組」的に、しかも「ショー」的に観ていたということなんだろう。僕は作品をショーとして、コンテンツとして消費することにいつの間にか慣れていた。リアリティショーとか観たことないけど、多分見始めたら止まらないと思う。

バラエティ番組はショーとしての完成度を第一だと考えている人が多いと思う。人となりがどうこう、っていうのはまあ二の次で、というのが健全だ。しかしアニメにおいても「ショー/ドキュメンタリー」区分が当てはまるのであれば、ショー的なアニメは、しばしば批判の対象にもなっている。そしてそれを僕は楽しめている。

「まあ今の時代あらゆるものがショーと化しているのだから、ショーとしての完成度を第一に考えてもいいんじゃない?」という評価軸を自分の中に構築するとき、どこか憚られるものがある。なんらかの超自我が働いている。素直に言えば、僕は考えすぎるのが苦手だ。だから、まあ楽しさ重視、という態度も認めてほしい。

ただ、ショーとしての完成度から、考えられることも多々あるはずだ。まずはその平面から構築していく。これは決意表明だ。

 

日記11

・池袋に行った。池袋は野蛮だ、という謂いもわかるけど、ジュンク堂があることと、ラーメン屋でソシャゲの話をする二人組を見かけることにおいてやっぱり池袋は好きだ。

 

ジュンク堂で色々買ったのにも関わらず、Amazon二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を購入した。自分の中で「モテる」「かっこいい」という価値観がかなり上位にきている。アイドルをできるだけかっこいい存在にするためにアイドル語りをやっている節はある。

 

・自分が一番かっこいい! というのは照れくさいから、適当なキャラクターを創作してそいつに押し付けたい感がある。

 

・アイドルの定義、今日が一応途中経過報告だったと思うけど、思いっきり書き直したい感も出てきた。

日記10

・勉強の本質的なグダグダっぷりに気付いた。このグダグダを乗りこなすために今までがあるべきだったのに。まあ、そんなこと言ってもしょうがない。いや、気付けないだろ。

 

・「アイドルになれる」ということと「アイドルである」ということの区別になんらかを見出さないと難しい。

日記8

・だいぶ寝てしまった。

 

・俳句の破調のカッコよさってラップ的なものかもしれない。五七五というグリッドを超えるゴツゴツ感がいい、みたいな。でも、それがダサいというのもわかる。

 

・鮎川ぱてのボーカロイド音楽論の本をパラパラと読んでいて「調性は去勢か」という問題を思いついた。知らん。

 

・歯痛までをも笑ってみせる、みたいなマインドはキモい。

 

・久しぶりにAi開いた。適当にロゴを作ってみたけど、自分の中の「ロゴ」の固定観念が強いな、って思った。

 

・陰影がついたロゴも増えていると思うけど、遠くで見た時にちゃんと違和感がないのか、というのが課題なんだろうな。

 

・池袋に行って本を買った。性癖系に使えるかもしれない、今は積んでおくしかできない。

 

・風龍を久しぶりに食べたけど、替え玉1玉で十分なんだよなあ。あと、テーブルに大きめの消毒液置いてあるのはどうなの?って思った。

 

・バイト先の最寄り駅付近のドトールを使うことが多い。けど、今日はやばい人がいたので使わなかった。