日記12

久しぶりにカラオケに行った。カラオケは地味に高くて、会員アプリを受付でインストールする。スマホのアプリケーションに対してはミニマリズムを発揮しやすいと思うけど、結局色々と不要なアプリも残している。ある程度アイコンで画面が色とりどりになっていないとむしろ落ち着かない。

歌うのはやっぱり恥ずかしさがある。特に迷うのは視線だ。下画面の歌詞をそれとなく見て歌ったり、目を瞑りながら歌ったり、色々試したが、結局画面に映っている歌詞をじっと見るのが歌に没入できるので良い。歌詞をちゃんと見ているのでラップのパートとかも意外と歌えるようになる。結局、「聴かれている」という意識と「聴かせている」という意識のバランスを考える、ということだと思う。

ラップは「歌う」よりも「言う」感じなので、噛むことさえしなければ恥ずかしさがない、とも考えられるが、どうしても「歌う」ことの恥ずかしさの裏返しのようにも聞こえてくる。変な声質や滑舌の悪さも露悪的に曝け出してしまおう、という態度にある恥の乗り越えの感覚。まあよくわからんけれども。

 

バラエティ番組は、単にショーとして観ることもできるが、他にもドキュメンタリー的に観ることもできる。演者の人となりを知るために。そこに物語を期待してしまうとまあかなり厄介にもなるのだが、とりあえずは「ショー/ドキュメンタリー」という区分をなんとなく設けることができる。

どっちが大事、とかはないと思うし、僕もそこまで気を遣っているわけではないが、この区分は他のジャンル、例えばアニメや映画についてもある程度当てはまるような気がする。

僕が最近観たのは「リコリス・リコイル」というアニメだ。このアニメ、人気はあるけれども設定の綻びとかで評価されていなかったりする。製作者インタビューでも、世界観を徹底させない態度が垣間見えて、まあ要するに「考察」のしがいがあんまりない。

けど、僕はサクッと「まあまあ面白いな」と思いながら観ていた。多分これはアニメを「バラエティ番組」的に、しかも「ショー」的に観ていたということなんだろう。僕は作品をショーとして、コンテンツとして消費することにいつの間にか慣れていた。リアリティショーとか観たことないけど、多分見始めたら止まらないと思う。

バラエティ番組はショーとしての完成度を第一だと考えている人が多いと思う。人となりがどうこう、っていうのはまあ二の次で、というのが健全だ。しかしアニメにおいても「ショー/ドキュメンタリー」区分が当てはまるのであれば、ショー的なアニメは、しばしば批判の対象にもなっている。そしてそれを僕は楽しめている。

「まあ今の時代あらゆるものがショーと化しているのだから、ショーとしての完成度を第一に考えてもいいんじゃない?」という評価軸を自分の中に構築するとき、どこか憚られるものがある。なんらかの超自我が働いている。素直に言えば、僕は考えすぎるのが苦手だ。だから、まあ楽しさ重視、という態度も認めてほしい。

ただ、ショーとしての完成度から、考えられることも多々あるはずだ。まずはその平面から構築していく。これは決意表明だ。